本日も先日見学に行きました『2021年度現代刀職展-今に伝わるいにしえの技-』の続きとなります。

「 刀 無銘 助真 」 優秀賞 四席 研磨師 京都府 玉置 城二

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姿は磨上で身幅広く反り程よく付き、棒樋を掻き流して中切先の体配。地鉄はよく詰んで板目流れごころにやや肌立ち、淡く映り立つ。刃文は匂深く沸づいた丁子乱れで中程から焼幅高く尖り刃交じり、足、葉しきりに入る。鋩子は乱れ込んで掃きかける。
余談ですが福岡一文字の助真というと、いままで鑑賞したときの感想が、踏ん張りの付いたがっしりとした姿で猪首切先なのが印象として残っているし、また福岡一文字と言うと重花丁子と呼ばれる華やかな大丁子を焼いた刃文の作品が特徴と思っていましたのでこんな作品もあるのだな、と思いました。ただし、助真は表は華やかな大丁子乱れを焼き、裏は比較的穏やかな大丁子乱れを焼くというと言う個性派なので、もしこの御刀が元々は太刀であった場合、展示の向き側は穏やかな裏なのかもしれません。

助真は、鎌倉時代中期に活躍した備前国・福岡一文字派初代助房の子と云い元久の頃(1204年頃)に生まれました。福岡一文字最盛期の建長年間(1249〜1255年)に活躍した刀工で、鎌倉幕府の招きで正元年中に一門の鍛冶を引き連れて相州鎌倉に下向し 山ノ内で鍛刀したと伝えているので 「鎌倉一文字」と呼ばれています。助真は数多くの名刀を遺していますが、一番の代表作としては、九州の大名、加藤清正の愛刀であった「日光助真」の名刀があります。「日光助真」加藤清正1609年(慶長14)に娘の「八十姫」が徳川家康の十男「徳川頼宣」と婚姻した際に、愛刀の助真を徳川家康に献上し、徳川家康の愛刀となったその太刀は、徳川家康の没後に祭神として祀られている「日光東照宮」に納められたため「日光助真」と名付けられました。1951年(昭和26年)6月9日、現行の国宝として指定されています。


「 刀 無銘 伝来国真 」 努力賞 七席 研磨師 青森県 細越 敬喜

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姿は磨上で身幅広く反り程よく付き、棒樋を掻き流し中切先の体配。地鉄は小板目肌良く詰んで地沸厚くつき精美な印象。写真ではわかりにくいですが元から中半くらいは来映りといわれる沸映りも見えます。刃文は匂口やわらかな直刀に小互の目交じり、砂流し、足、葉よく入りく小沸ついて地刃共に明るく冴える。鋩子は直ぐに入って先尖りごころに浅く返る。

来国真は、来国俊の子と言われ鎌倉末期正和頃(1312年)の刀工といわれますが、来国光の弟で来倫国の兄とも伝えられています。有銘作は非常に少なく、現在では僅かに太刀、小脇差、短刀などが見られ、中には皆焼風を帯びて長谷部に近似した激しい出来口の物も見られます。来一派は、平安中期に京都の三条に住した宗近を祖とした山城鍛冶の鍛錬法で、宗近を始祖とする三条派をはじめ、綾小路派、粟田口派などの各派があります。なかでも来派は高麗鍛冶とも呼ばれ、鎌倉中期より南北朝期にかけ
て多くの刀工を輩出しました。作風は三条系や粟田口系の鍛冶が公家たちの需要を対象とし優雅な作品を鍛えたのに対し、来派は、武家や僧兵などを対象としたため、一見して山城物とは見えない豪壮な物が多いのが特徴でもあります。


「 刀 無銘 伝倫光 」 努力賞 十一席 研磨師 福岡県 諸富 剛

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姿は磨上無銘、身幅広く元先さほど差が付かず、反り浅く付いて中切先延びごころの南北朝期の体配。地鉄はよく詰んだ板目肌に処々杢交じり、地沸微塵について細かに地景入る。刃文は匂口締まりごころで片落ち互の目を主体とし、互の目・丁子・尖り刃等交じり下半すこし逆がかり、処々に角焼刃(角互の目)を交えて足・葉頻りに入る。鋩子は刃文なりに乱れ込み、小丸に返る。

倫光は南北朝時代に活躍した備前国長船の刀工。備前長船の名工・兼光の門弟で基光・政光とともに活躍しました。現存する作品に見る年紀は、貞和から永和に及んでおり、倫光・基光・政光いずれも師匠の作風を見事に継承しておりますが、倫光は一門の中でも師匠に迫る技を持っていた人物と評されます。また、本作品ではありませんが、倫光は徳川四天王の1人である井伊直政の指料です。井伊家は後に徳川四大老となります。

これで其の参は終わりますが、まだ続きます。なにしろ400ショット以上撮りましたから (^^;)